外国人レスラーでは3人目

 4月29日、2024年春の叙勲受章者が発表され、プロレスラーのタイガー・ジェット・シンが旭日双光章を受賞した。外国人プロレスラーとしては、ザ・デストロイヤー(2017年受賞)やミル・マスカラス(2022年受賞)に続く栄誉である。シンの異名と言えば“インドの狂虎”。歴史に残るヒール(悪役)だった彼がいかに日本で愛され……いや、恐れられたかを含め、その功績を辿りたい。

 初登場からして衝撃的だった。1973年5月4日、テレビで生中継されていた山本小鉄vsスティーブ・リッカードの試合に突然乱入。それも、黒のスラックスに黄色のシャツ、ベージュのペイズリー柄ネクタイという、平服仕様であった。それまで頭にターバンを巻いてリングサイド席に座っており、観客としての乱入だったのだ。

 4日後の5月8日より、正式にプロレスラーとして新日本プロレスに参戦。5月25日には、早くもアントニオ猪木と一騎打ちしている。拙著『アントニオ猪木』(新潮新書)で詳述したが、この時期、誤認逮捕で収監されていた歌手の吉田拓郎が晴れて釈放されて友人に会うと、真っ先に「先週の猪木vsシン、どうなった?」と聞いたという逸話がある。それほどのインパクトをシンは人々に与えていたのだ。プロレス評論家の菊池孝さんは、この試合後の模様をこう語っていた。

「シンの控え室にコメントを取りに行ったら、何を話すにも手を宙に上げて、指先がプルプル震えてるんだよ。『これはヤバい奴が来たな』と思った」

 当時の東京スポーツも、シンを「謎の怪人」「狂人」などと報道。一躍、猪木の敵役として台頭することになる。彼の名を一気に世間に名を知らしめたのが、俗に言う“新宿伊勢丹襲撃事件”であった。

「伊勢丹襲撃事件」の真相

 1973年11月5日(月)、猪木は妻の倍賞美津子、実弟の猪木啓介と、東京・新宿の伊勢丹デパートで買い物をしていた。午後6時少し前、猪木が先に伊勢丹の正面入り口を出た。その時、シリーズ参戦中だったシンと、2人の外国人選手と鉢合わせ、瞬間、3人が猪木を襲撃した。猪木を殴打し、ガードレールへぶつけ、現場には血痕も残った。外国人勢は嵐のように立ち去った――この出来事については、当時から、やらせか否かで議論を呼んだ。

 今世紀になってから新日本プロレスの元レフェリー・ミスター高橋氏が自身の著書などで、「仕込み済みのドラマ」と明言した。だが一方で、筆者が話を聞いた元東京スポーツ編集局長(当時はデスク)・桜井康雄氏(「ワールドプロレスリング」の解説者)の見解は全く異なる。

「やらせとか、絶対にそんなはずはない。やらせなら、なんで東スポをその場に呼んでくれないんです? 今もって、この時の現場写真は一枚もないんです。そんな乱闘、したって意味がない。わからないんですから」

 事件で全治一週間の裂傷を負った猪木は「この決着は、必ずリング上で付けます!」と明言。事件から11日後の11月16日、二人は一騎打ち。大流血戦の末、猪木の反則勝ちとなった。11月25日の読売新聞の朝刊23面には、こうある。

〈「テレビのプロレス番組で、血を流すどぎつい場面が増えている。茶の間の子どもたちへの影響も考え、警察は取り締まるつもりはないか」―最近、こんな投書が警視庁に相次いでいる〉

 どう考えても猪木とシンの抗争を槍玉に挙げたものだった(当時の全日本プロレスは東京五輪柔道金メダリストのアントン・ヘーシンクのプロレス・デビューに向けて湧いていた)。

 以降、猪木とシンは、文字通り、血で血を洗う抗争を展開した。新日本プロレスで初のデスマッチをしたのもこの両雄だ(リングの周囲に若手などを配置。選手がリング外に出ようとしたらすぐに戻すランバージャック・デスマッチ。猪木が勝利)。シンが猪木の顔面に火の玉を投げつけ、即刻反則負けになったこともある(1974年6月20日)。この時、帰りのバスに乗り込もうとするシンにファンが汚い言葉で叫ぶと、意味がわかったのか、そのファンを殴打したというオマケまでついている。

 プロレス記者の間では、「シンと目を合わせるな」が合言葉になった。合ったら最後、襲われるからである。今で言うヘッドバンキングさながらに頭を上下に振りながらサーベル片手に入場するシンに、逃げ惑う観客の姿は、昭和の新日本プロレスにお馴染みのヒトコマと言って良かった。

 火の玉事件から6日後の再戦では猪木がアームブリーカーでシンの右腕を破壊する“腕折り事件”が勃発。その後も、ゴング直前のシンの襲撃で猪木がアバラを骨折し、10分間の控え室での応急手当の末、改めて試合が再開(1976年8月5日)したこともあれば、仲間の乱入や場外逃亡をさせぬため、鉄格子でリングを囲った“フェンス・マッチ”で対戦したこと(1977年2月10日)もあった。

 シンの師匠はジャイアント馬場を一流のレスラーに育てたことでも知られるフレッド・アトキンス。正統派の試合もお手のものだった。稀代の悪役ゆえ、巡業先ではスポーツジムの類いに行けず、もっぱらホテルの屋上を開けてもらい、練習していたという。

 1981年7月に全日本プロレスに移籍するまで、シンは猪木と37度の一騎討ち。しかも、タイトルマッチでも特別なデスマッチでもない、ごく普通のシングルマッチが17回ある。会場は沖縄での2回を含め、全国津々浦々にわたり、それも全てメインエベント。つまり、2人が闘うというだけで、客を呼べたのだ。

タイガー・ジェット・シン財団

 シンは1990年より一旦、新日本に復帰し、後にはFMWやNOW、IWAジャパンにも参戦。日本での知名度からか、茨城県つくば市には、親戚が経営し、自らの写真を看板にしたインド料理店があった(現在は看板デザインは変更)。さらに、シンが好きな女優を聞くと驚く。なんと、吉永小百合だった。

「俺はかつて、アメリカ、カナダ、インドの女優を観て来たが、サユリほど上品で美しい女性はいない」(2002年2月22日IWAジャパン大阪大会にて)

 この発言の直近には念願の2ショット撮影も実現。70年代、新日本プロレスで通訳を務めていた女性がこの時期、吉永のマネージャーをしており、シンの悲願を覚えていたからこそ実現したものであった。ということは、相当昔から“サユリスト”だったことになる。そのシンが、こう呟いたことがある。

〈サユリさんに、誤解されやすい私の、本当の姿、生きざまを知ってほしい〉(前出・拙著より)

 実はシンが凶悪レスラーなのは、日本だけのこと。地元のカナダでは、タクシー運転手なら誰もが知っている大豪邸に住む成功した実業家であり、篤志家だった。

 きっかけは、まさに日本において猪木と抗争していた時期だった。毎回、怪我をして帰って来るシンに妻がアドバイスしたという。

「長くは出来ないかも知れないから、今のうちに引退後のことを考えておいた方がいい」

 そこで、日本で得たファイトマネーをもとに、エビの輸入業や、鶏卵ビジネス、及び陶器を中心とした土産物事業を手掛けると、これが大当たり。先に触れたカナダの大豪邸は、部屋数23を誇り、地下のリビングルームの広さは何と100畳以上。テニスコートやゴルフコースも敷地内に完備され、バスルームは来客用やトレーニング室のものも含め13も設置されている。ヘリコプターも持っているというから凄い。名士として、地元ではCMにも多数出演。資産は1990年代中盤に50億円以上はあったというが、以降は数えるのを止めたという。

 そして2000年代からは、教育への援助や福祉活動への寄付も含めた社会活動に積極的に参画し、2009年には公立学校「タイガー・ジェット・シン・パブリック・スクール」が開校。シンの名が冠された通りも現地には存在する。2010年には、「タイガー・ジェット・シン財団」を設立し、翌年起こった東日本大震災に心を痛め、200万円以上を同財団から寄付。こちらは日本政府から表彰もされている。この時、シンはこうコメントした。

「日本は実家のようなものだから」

 そして、ビジネスが成功した理由については、次のように語っている。

〈アメリカ人とビジネスしなかったのが良かった。彼らは心のつながりでビジネスをしない。マネーのつながりがビジネスなんだ。(中略)その点、アジア人はハートのつながりを大切にする。(中略)時間をかけて築いたものはマネーより強力だ〉(「週刊プロレス」2010年5月19日号)。

「猪木が一番強かった」

 1977年2月10日、前掲のフェンス・マッチでは、シンが大流血の末、場外でダウン。20カウント以内に戻って来られず、猪木のリングアウト勝ちとなった。実質的なドクター・ストップとも言える完全勝利であり、決着のゴングの瞬間、場内の観客も大喜びだ。ところが、猪木だけがいきり立ち、シンに何か叫んでいる。

「てめー、立て! 来い! この野郎!」

 それを聞いたシンは、カッと目を見開き、おぼつかない足取りながらリングに上がると、再び猪木と凄絶に殴り合う。最後はブレーンバスターからバックドロップに繋がり、“幻の延長戦”も制した猪木は、控え室で次のようにコメントした。

「俺がシンの立場なら、あれほど出来ていたかな……あの根性には、本当にカブトを脱ぐよ」

 さらにシンについて、猪木のこんな発言が残っている。

〈シンが来た頃っていうのは、どんなにいいレスリングをやってもお客がまったく振り向いてくれなかったんだよね。俺はよくプロレスを鉄道のレールにたとえるんだけど、基本のレールはグラウンドとかのオーソドックスなレスリングであることは間違いない。だけどときには、刺激というある種の脱線もプロの興行には必要なんです。(中略)新日本プロレスのストロングスタイルがここまで続いてこられたのは、その局面ごとに変化する(反則裁定までの)ファイブカウントの幅を持っていたことだと思うんですよ〉(前出・拙著より)

 そんな猪木の無軌道な発想とファイトに恐れずについて行った最大のライバルこそ、シンであったことは論をまたない。1970年代の新日本プロレスを実質的に支えた猪木とシンは、やはり根っからのファイターだった。

 2005年以降、新日本プロレスが(株)ユークスによる新体制となっても、シンに出場オファーがあったという。だが、シンは〈そこに猪木がいないから〉(ベースボール・マガジン社刊「アントニオ猪木50Years (上巻)」より)参戦することはなかった。

 ところが2010年12月3日、シンは来日し、サーベル片手にリングに向かった。同日、おこなわれた、猪木のデビュー50周年を祝う記念興行に現れたのだ(主催はIGF)。目指すリング内には、当然、猪木がいた。セコンドがリングに入るのを防ごうとするが、猪木がそれを避けさせ、2人はリング上で対峙した。すると、シンがうやうやしく、飾りのついた箱を、猪木に差し出す。猪木が怪訝な表情でそれを受け取った瞬間、大ハプニングが起きた。

「あっ!」

 箱から火柱が上がったのである。かつての抗争さながらの狼藉に、大きく手を広げ、臨戦態勢を取る猪木に、シンも挑みかかろうとする。だが、次の瞬間、シンはサーベルを猪木に差し出した。そして、2人ともニヤリと笑い、がっちりと握手、そして、抱擁した。

 今回の叙勲にあたり共同通信のインタビューを受けたシンは、こんな一言を残している。

「猪木が一番強かった」

瑞 佐富郎
プロレス&格闘技ライター。愛知県名古屋市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。シナリオライターとして、故・田村孟氏に師事。フジテレビ「カルトQ〜プロレス大会」の優勝を遠因に取材&執筆活動へ。近著に『アントニオ猪木』(新潮新書)、『プロレスラー夜明け前』(スタンダーズ)など。BSフジ放送「反骨のプロレス魂」シリーズの監修も務めている。

デイリー新潮編集部